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劇作家として自然な日本語とは何か ( A playwright’s view of natural Japanese)

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劇作家として自然な日本語とは何か ( A playwright’s view of natural Japanese)
劇作家として自然な日本語とは何か?
A playwright’s view of natural Japanese
平田オリザ
Oriza HIRATA
大阪大学
Osaka University
1.演劇における強弱アクセント
八十年代後半から日本演劇界で始まった「現代口語演劇」と呼ばれる運
動の中で、私が特に強く主張してきたのは語順とアクセントの問題だっ
た。
例えば、従来型の演技の教科書を開いてみると、以下のような説明が書
いてある。
「その、竿を、立てろ」
この例文において、「この」でも「あの」でもなく「その」を強調した
いときには、「その」に力を入れる。「ほうき」でも「はたき」でもなく
「竿」を立てることを強調したいときには、「竿」に力を入れる。「寝か
せる」のでも、「転がす」のでもなく、「立てろ」を強調したいときに
は、「立てろ」に力を入れる。実際に、そのような演技指導の方法が書い
てある。
だが、少し冷静に考えれば分かることだが、「竿」を強調したいのな
ら、私たち日本人は、たいてい、次のように発語するだろう。
「竿です、竿、立ててください、その竿」
「竿、竿、竿、竿だよ、立てて、それ」
「竿だって、立てんのは、その竿」
あるいは、「立てろ」を強調するときには、
「立てて、立てて、その竿」
「立てんの、立てんの、竿、それ」
日本語の大きな特徴として、欧米の多くの言語に比べて語順が自由であ
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ることと、話し言葉のレベルでは単語の繰り返しをあまり厭わないので、
結果として「強調したいことは前に持ってきて繰り返す」という点があげ
られる。また私たちは、日常会話においては、わざわざ強弱アクセントを
付けて強調をするということをあまりしない。強弱アクセントを付けるの
は、とても特殊な状況だけだ。逆に言えば、強弱アクセントを連発すれ
ば、「なんだかくどい、暑苦しい人」という印象を持たれるだろう。
従来の演劇教育が、日本語の本来の姿から見ると異様ともいえる強弱ア
クセントを推奨してきた理由はいくつも考えられるが、主なものは以下の
二点に集約できるだろう。
a.近代演劇が日本に入ってくる過程で、無批判に、西洋の演技術をその
まま直輸入し、日本語の話し言葉の特徴に関する検証を怠ってきたこと。
b.近代演劇の黎明期においては、上演される戯曲の大半が西洋の作品の
翻訳であり、またその翻訳戯曲を、金科玉条のように「上手く」発話する
ことが求められたこと。さらにその翻訳も、現在ほどにこなれたものでも
なかったこと。
私たちが一般に「新劇調」「芝居くさい」と呼ぶ、一種独特の舞台の台
詞回しは、このような歴史的な背景をもとに推奨されてきた無根拠な強弱
アクセントの多様に由来している。
諸外国においては、演劇は、音声言語教育の根幹をなす大きな役割を果
たしているが、日本ではそのような役割がまったく期待されてこなかった
一つの要因が、この歴史的な経緯にあると私は考えている。
また日本語教育に演劇を用いようとする際に、多くの教員が持つ違和感
もここに由来する。この点は、在外経験の長い教員ほど、この二十年間に
日本国内で起こった劇言語の大きな変化を体験していないために、演劇の
言葉といえば、「わざとらしい」「おおげざな」言語であって、およそ日
本語学習の教材には向かないという偏見が強いように思われる。
2.語順とアクセント
日本語教育において、教員が、自らが使用するテキストを「自然な日本
語ではない」と感じるのも、多くの原因も、語順の問題にあると私は考え
ている。
感情表現や意思の伝達が求められる上級の授業で、日本語の話し言葉特
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有の語順に沿っていない文章を、いくら繰り返し読ませても、上述したア
クセントの問題などから、教員が期待するような自然な発話には、いつま
でたっても届かないという結果になる。
そこで、無理のない発話を促すような、日本語の話し言葉の優れた教材
が求められているというありきたりの結論に達するわけだが、しかし実際
の教育現場では、ことはそう単純ではないだろう。印欧語族の母語話者に
対して、初級、中級のレベルで、あまりに日常会話に近い例文、たとえ
ば、「竿だよ、竿、竿立てて、それ」「竿だって、立てんのは、その」と
いった文章を示した場合には、意味の把握が難しかったり、応用が利きに
くかったりする場面も出てくるだろう。
語順は、発話者の個性がもっとも現れやすい部分でもあるので、教員の
癖や好みが反映されやすいという難点もある。
私のつたない経験から言えば、おそらく中級から上級に進む段階で、学
習者が、主体的に、語順を自由にあやつったり、またその操作によって意
味伝達にどのような違いが出てくるかを経験的に学べる過程が必要なのだ
ろう。一つの例文を、様々な語順で言い換えたり、学習者が自分の言いや
すい語順を見つけたりする反復練習も効果的かもしれない。
少なくとも、アクセントの矯正を、アクセントの問題単独で考えるのに
は限界がある。「優れた話し言葉の教材が、無理のないアクセントを導き
出す」と考えていくべきなのではないだろうか。
このことは、実は日本語教育だけの問題ではない。
例えば、日本国内で流通している小学生向けのある国語教科書には、以
下のような記述がある。
「今年の
冬休み
僕は
お父さんと
ぜったいに
スキーに
行きたい
です」
この文章を、感情表現豊かに読むために、「ぜったいに」のところに
は、わざわざ傍線が引いてあり、「強く」と書いてある。
この指導法は、主に二つの点で問題がある。
一つは、「表現」という個々人の主観性に強く依存する事柄に関して、
強い言語規範を押しつけてしまっていること。もう一つは、その言語規範
自体が、前述したように、まったく根拠のない頭の中の概念だけのもので
あること。
もしも、この文章を使って、話し言葉に関する何らかの表現教育をした
いのならば、たとえば、以下のような指導が考えられるだろう。
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a.あなたなら、どこを強調したいですか?
b.そのためには、どういった表現の工夫が考えられますか?
いくつでも、思いつく限りの表現の仕方を考えてみましょう。
c.実際に、いま考えた表現の方法を試してみましょう。
友だち同士で発表して、感想を言い合いましょう。
必要に応じてヒントを与えていけば、子どもたちは、「語順」「繰り返
し」「高低」「強弱」「間」など、様々な強調の方法を発見するだろう。
3.話し言葉のカテゴリー
もう一点、日本語教育、国語教育に関わり、特にその教材を作る過程で
感じるのは、「なんの力をつけるための教材、教程なのか」という点だ。
小学校の先生方に、話し言葉についてアンケート調査をすると、必ずと
いっていいほど、「いまの子どもたちは、お喋りは得意だけれど、きちん
と自分の気持ちを伝えるのが苦手」といった回答が返ってくる。「いまの
子どもたち」とひとくくりにすること自体に危険があるが、ただ、この現
場の直感的な意識は参考にしていくべきだろう。
これまで国語教育における音声言語教育といえば、「朗読」「スピー
チ」そして「ディベート」といったものが主流だった。一方、学級運営に
おいては、いわゆる「学級会」における発言様式、きちんと手を挙げて、
クラスのみんなに向けて意見を発表するといった力が求められてきた。
しかし、一般社会において、30人から40人の集団で、司会がいて、きち
んと手を挙げて意見を言うといった機会がどれほどあるだろうか?
業種
などにもよるだろうが、一般企業において私たちが最も多く経験するの
は、5人から10人ほどの会議であり、そこで交わされる発話は、流動的
であり、他者の発言を受けての即応性が強く求められる。この点は、大
学、大学院でのゼミなどでも事情は同じだろう。
もちろん、小・中学校においても、学級会などとは別に、「班活動」と
呼ばれるものが広く行われており、教員は「ハイ、班ごとに机を向き合わ
せて話し合ってください」といった指導を日常的に行っている。ところが
不思議なことに、そこでの「話し合い」の方法は、国語においても、その
他の教育課程でもほとんど教えられない。これでは、社会に出てから最も
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必要とされる発話能力が、教科、教程に入っていないことになる。
そこで私はまず、話し言葉の教育においては、話し言葉自体のカテゴリ
ーをはっきりと分類することを提唱してきた。たとえばそれは、
演説・・・政治家などが、あまり聞く意志のない「不特定多数」を相手
に、一方的に行う発話。
スピーチ・・・結婚式などで、あまり聞く意志のない「特定少数」を相手
に、一方的に行う発話。
教授・・・教室などで、ある程度聞く意志を持った「特定少数」を相手
に、ほぼ一方的に行う発話。
対論・・・裁判などの発話。通常、一対一で、主に相手の主張を論駁する
ことを目的とする。交互に意見を発表することが多い。
対話・・・会議などでの発話。二人あるいは数人で行い、説得、妥協など
ののち何らかの共有できる結論を得ることを目的とする。発話のタイミン
グなどは流動的になる。
会話・・・通常の挨拶や、すでに知り合った者同士の「お喋り」。
国語教育においても日本語教育においても、音声言語を扱う場合は、こ
れらのカテゴリーをある程度明確にし、それにあった教材を作り、指導の
プログラムを開発することが求められる。スピーチの練習をいくらしたと
ころで、ディベートや日常会話が上手くなるわけではない。また逆も真だ
ろう。もちろん、どの教材にも、発音の矯正など副次的な効果はあり、い
ずれも全否定されるものではない。しかしながら、教える側が明確な目的
意識を持っていなければ、教育の効果は半減するし、発達段階、あるいは
言語習得の段階に応じた効果的なプログラムを組むこともできない。
先に国語教育を例にあげたが、日本語教育でも、おそらく事情は同様だ
ろう。日本語教育教育においては、初級者は当然、日常会話の練習から入
るのだろうが、そのあとに来るものが、スピーチやディベートで本当にい
いのだろうか?
また、それは、日本語学習者のニーズに沿ったものにな
っているだろうか?
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4.対話と会話
こういった問題を考えるにあたって特に重要なのは、「対話」と「会
話」を区別することだと、私は考えてきた。
「対話」=dialogueと、「会話」=conversationは、本来、内容の異なるも
のだが、日本語の辞書では、ほとんどその違いが書かれていない。たとえ
ば、小学館の『大辞泉』では、
「会話」=複数の人が互いに話すこと。
「対話」=向かい合って話し合うこと。
となっている。ほぼ区別がないと言っていいだろう。
特に問題は、対話の定義の方だろうが、これは、定義や区別がしっかり
していないというよりも、「dialogue」という概念自体が、日本社会に定着
していないと考えた方がいいかもしれない。
そこで、私なりに、先の分類に加えて、この二つを対比して定義してみ
ると、
「会話」=価値観や生活習慣なども近い、親しい人同士のお喋り
「対話」=あまり親しくない人同士の価値や情報の交換、あるいは親しい
人同士でも価値観が異なるときに起こるすり合わせなど
といった感じになる。
さて、演劇は、基本的に「対話」を要求する表現である。
たとえば、父、母、姉、弟の四人家族がちゃぶ台を囲んで話をしてい
る。これは、「会話」だ。しかし、会話だけでは、観客に有効な情報は、
いつまで経っても出てこない。たとえば、父親の職業が、いつまで経って
も観客には分からない。なぜなら、息子が父親に、「お父さん、仕事は
何?」とは聞けないからだ。
そこで私たち劇作家は、必ず他者を舞台に登場させる。例えば、娘の恋
人がやってくる。そうして、娘の恋人と母親が話をするような状況を設定
し、母親の口から、「いやいや、近頃は銀行も大変でしてねぇ」といった
台詞が吐かれると、自然な流れで、観客に、「あぁ、この家の父親が銀行
員なのか」という情報が伝わる。
このように近代演劇は、他者の存在を使った対話の構造を作り、情報を
観客に伝えるという原理を内包している。
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知っている人同士でも、価値観が異なれば対話が起こると先に書いた
が、その最も端的な例は、『忠臣蔵』に見て取ることができる。「松の廊
下」の事件が起こった当時、赤穂藩には約三百人の武士がいたそうだ。彼
らは侍とはいえ、関ヶ原から百年も経って、完全にサラリーマン化してい
た。要するに、城中では毎日、年貢の取り立てなどを巡って「会話」だけ
を行っていたわけだ。
ところがそこに、殿様が江戸で大事件を起こして、藩が取りつぶされる
という予期せぬ運命が降りかかってくる。個人の力だけではどうしようも
ない、こういった大きな運命に直面したとき、人は初めて、自分でも思っ
ていなかったような価値観を表出させる。
「殿が死んだんなら、おれも切腹だ」
「いやいや籠城だ」
「討ち入りだ」
「いや、ちょっとうちは家族も多いんで、再就職します」
といったように各自が意見を述べあい、対話の構造が生まれる。運命にさ
らされることによって「武士とはなにか」という、それまで考えてもみ見
なかった自己への問いかけが派生し、それをぶつけ合うことで対話が生ま
れるのだ。
対話の教育を実践するにあたって、演劇が有効な大きな理由がここにあ
る。
中・上級の日本語教育においても大事なことは、こういった「対話」の
関係を作っていくことだと私は考えるが、ただ、ここに大きな障壁があ
る。
先に書いたように、まず日本語には、「対話」という概念が薄い。一般
に言われるように、日本社会は、ほぼ等質の価値観や生活習慣を持った者
同士の集合体=ムラ社会を基本とし、分かり合ったり察しあったりするコ
ミュニケーションを中心に考える文化を有してきた。一方、欧米は、異な
る文化、異なる価値観が陸続きに接しているために、自分が何ものであ
り、何を愛し何を憎み、どのような形で社会に参加していけるかを説明し
なければならない文化である。
もちろん、個々人のコミュニケーションは多様であり、過度な一般化は
避けねばならないが、概して、上記のような傾向があることは誰もが納得
するところだろう。
日本には、対話という文化が少ない。教える側にも、取り立てて「対
話」ということを意識はしない。
しかし、海外で日本語を習得し、やがて日本に留学したり、あるいは日
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本企業に勤めるようになる学生たちにとって、何よりも必要になるのは、
日本語による「対話力」だろう。なぜなら、彼らは、日本においては常に
「他者」であり、そこでは、説明や説得や、あるいはその結果としての妥
協や譲歩や納得が、頻繁に要求されるからだ。
日本に来る留学生が、いきなりスピーチやディベートを求められる機会
がどれほどあるだろうか。彼らに本当に必要なのは、ゼミでの自由な討論
や、そのあとの居酒屋での議論に付いていく能力ではないのか。しかし日
本には、対話という習慣自体が希薄なために、これを教える有効な教授法
が開発されていない。あるいは、そのことが意識すらされていないのが現
状ではあるまいか。
5.
対話教育の矛盾
ここまでお読みいただいて、読者は一つの疑問を抱かれるだろう。
日本には対話がない(少ない)と言いながら、それを教えようと言われ
ても、では何を教えればいいのか。
ここに、日本語教育、および国語教育における対話の授業についての、
一つの大きな困難がある。
そもそも、日本語には対話の習慣が希薄なので、その語彙そのものが少
ない。
たとえば、よく言われることだが、日本語には対等な関係での褒め言葉
の語彙が極端に少ない。欧米の言語では、wonderful 、marvelous 、amazing
、great 、terrificなどなど、ちょっと思いつくままに並べてみても、いくら
でも出てくるのだが、こういった語彙が日本語には少ない。実際に、日本
の中高年の男性が対等な関係で相手を褒めようとすると、外来語に頼らざ
るを得なくなる。「ナイスショット」「ナイスアプローチ」といった具合
である。
また、以下のような事例も報告されている。
欧米に比べればまだまだとはいえ、日本の女性の社会進出は、この十年
で大きな進歩を遂げた。女性の上司、男性の部下という関係も、よく見ら
れるようになった。しかしながら、未だに、女性の上司が男性の部下に命
令する際の適切な日本語というものは定まっていない。多くの場合、いわ
ゆる昔で言うところの「男勝り」と言われるような、少し乱暴に感じられ
る言葉遣いか、あるいは過度に丁寧な言葉遣いになってしまう傾向があ
る。
また、医療機関などでも、中高年の男性が、若い女性の看護師から「子
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ども扱いされた」といって怒り出すケースがある。
しかし、これは看護師の側の問題ではない。
日本語の二千年にわたる歴史の中で、女性が男性に命令する、指示する
という関係は、母親が子どもに何かを命ずるという関係しかなかったの
だ。関係がなければ言語は生まれてこない。そしてまた、新しい関係は、
新しい言語の誕生を要請する。
社会の構造は、法律一つで大きく変わる。雇用機会均等法ができて二十
年が経ち、女性の社会進出は盛んになった。しかし、その社会の変化に、
言語の変化が追いついていないのだ。私は、言語が社会の変化に追いつく
のには、五十年ほどのタイムラグが生じるのではないかと考えている。
1868年に明治維新が起こり、四民平等、努力をすれば出世ができる、身
分を越えて恋愛もできるといった新しい人間関係が誕生した。しかし、一
つの日本語で、政治の議論をし、経済を動かし、ラブレターを書いたり喧
嘩もしたり出来るようになるのは、1910年前後まで待たねばならない。や
はりここでも、50年ほどの時間差がある。
私たちはこれから、時間をかけて、年齢や性差を超えた対等な「対話」
のための日本語を作り出していかなければならない。明治期と同様に、そ
こでは文学や芸術に関わる者の役割も大きいだろう。
また言語教育の立場で言えば、教授者が、少なくとも、日本語がこのよ
うな過渡期にあることを強く認識しておくだけでも、大きな違いがあると
私は考えている。もちろん、言語は、常に何らかの過渡期にあるわけだ
が、その過渡の質というものをしっかりと認識しなくてはならない。現在
の日本社会において、そのキーワードは「対話」にあると私は考えてい
る。
また、繰り返しになるが、日本社会に「対話」の習慣が少ないからこ
そ、「対話」を前提とする演劇を教材として用いる意味が、より一層ある
のだとも信じている。
6.
冗長な言葉を教える
もう一点、音声言語の教育を考える上でのキーワードとなるのは、「冗
長率」という概念だ。冗長率とは、文章、あるいは一つ一つの文の中に、
意味や情報の伝達とは直接関係のない語句や音が、どれだけ含まれている
かを示す数値である。
先にあげた話し言葉のカテゴリーの中で考えると、一般的には、「会
話」すなわち日常のお喋りが、最も冗長率が高いように思える。しかし実
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際には、「会話」は冗長率が低くなる。よく知っている者同士の会話で
は、お互いが前提としているような事柄は、すべて省略されるからだ。そ
の最も典型的な例が、長年連れ添った夫婦の会話だろう。「メシ」「フ
ロ」「新聞」というやつだ。
演説やスピーチは、基本的に冗長率が低い方がいいとされる。実際に、
スピーチやディベートの授業では、余計なことは言わず、また「えーと」
「あの、ですから、まぁ」といった余分な語句も少ない方がいいと教えら
れる。
実は、最も冗長率が高くなるのが、「対話」なのだ。対話は、異なる価
値観や文化的な背景をすり合わせる行為だから、まずは当たり障りのない
話題から入っていく。本題に直接入ることは少なく、天気や趣味の話から
入って、だんだんと価値や情報をすり合わせていく。語句自体にも、冗長
なものが多く含まれる。「えー、まー、そういうお考えもあるでしょう
が」といった感じだ。
例を挙げてみる。小津安二郎監督の『東京物語』の冒頭、笠智衆と東山
千栄子演ずる老夫婦が、子供たちを訪ねて上京する、その準備をしている
場面がある。ここではまず、空気枕をどちらの鞄に入れたかといった、た
わいもない「会話」が繰り返される。
とみ「空気枕、そっちへ入りやしたか」
周吉「空気枕、お前に頼んだじゃないか」
とみ「ありゃしぇんよ、こっちにゃ」
するとそこに、隣人(細君)が通りかかって、「対話」が始まる。
細君「お早うござんす」
とみ「ああ、お早う」
細君「今日お発ちですか」
とみ「え、昼過ぎの汽車で」
細君「そうですか」
周吉「まァ今の中に子供たちにも会っとこうと思いましてなあ・・・」
細君「お楽しみですなあ、東京じゃ皆さんお待ちかねでしょうで」
周吉「いやァ、暫らく留守にしますんで、よろしくどうぞ」
細君「えっえっ、ごゆっくりと‐‐‐立派な息子さんや娘さんがいなさっ
て結構ですなァ。本当にお幸せでさあ」
周吉「いやァ、どんなもんですか」
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隣人の登場以降、文の冗長率が増していることが見て取れる。内容自体
もそうだし、「まぁ」「いやぁ」「え、え」といった語句も多く含まれて
いる。
さらに前述したように、このような「対話」を通じて、観客は、以下の
ような事柄を一挙にさまざまな事態を理解するのだ。
a.
ふたりが東京への旅行の準備をしていること。
b.
東京では、出世した息子や娘が暮らしているらしいこと。
c.
多少長い旅になりそうだが、それを二人は楽しみしている様子。
日本の国語教育は、従来、冗長率の少ない言葉を教えることに腐心して
きた。書き言葉中心の教育においては、それも効果のあることだっただろ
う。その延長線上で、スピーチ、ディベートなど、冗長率の低い話法を教
える授業が、無意識に選択されて、教えられてきたとは考えられないだろ
うか。より厳しい言い方をすれば、教師が教えやすいように教材を選択し
てきたとも言える。
本来、国際化社会を生きていかなければならない日本の子どもたちに、
本当に重要なのは、異なる価値観、異なる文化的な背景を持った人々と
も、どうにかしてうまくやっていく「対話」の技術だろう。しかし、これ
を教えることは、従来型の国語教育からみれば、冗長な言葉を教えるとい
う点において未知の領域になる。
だが、未知の領域ということは、逆に言えばゼロからのスタートという
ことだ。だとすれば、この分野では、日本語教育と国語教育がお互いの経
験を持ち寄って、連携できる可能性が最も高いともいえないだろうか。日
本語教育においても、海外での大学などでの日本語教育、継承語教育、そ
して日本国内での日本語を母語としない子どもたちへの日本語教育といっ
た様々な位相の体験が、今後の国語教育における対話教育に、豊かな示唆
を与える可能性があると私は考えている。
優れた日本語教育者は、これまでにも、意識するしないにかかわらず、
こういった対話の状況を教室の中に生み出し、授業を行ってきている。日
本語教育と国語教育の双方に等距離で付き合ってきた私からすると、この
日本語教育が培ってきた蓄積が、ともすれば閉鎖的になりがちな日本の国
語教育に風穴をあけ、貢献できる部分は大きいだろうと感じるのだ。
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(この論考は、10月に刊行予定の「日本言語文化研究会論集」のために
書き下ろした論文から抜粋、加筆修正を加えたものである)
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